~テラスハウス左側に向けて~
「何もなかった一日」など、本当にあったのだろうか?
杉原環樹
「私たち世代」にとって、暮らしや日常といったものはもはや「退屈」でしかない。あらゆる情報から「無駄」が簡単に消去され、「嘘」でありながら嘘のように見せない手法でもって、「大文字の固有名詞」が限りなく強者となっている。
「アート」や「美」というものを巡っても状況は安易に同じ路を歩んでいるように思える。例えばギャラリースペースと呼ばれる場にあっても(いくら「アットホームなスペース」などと謳ってみたところで)、実際そこで展示される「作品」のために、外部の音は遮断され、壁のシミは白く消し去られ、無数の人の身体はある方向性を持って集約されていく。この体験は生活者にとって「非日常的な」体験である。同じく不特的多数の者らに消費されるための一つの起点を有したTV、雑誌、音楽媒体(CDやライブなど)、有名なインターネット上のサイトなども「一つの身体」を作ろうとする。
今の多くの若い世代にとって、「成功」とは、その「非日常的」体験の中心に自身が在ることだといえるだろう。 そのような存在へと自身を導くことにしか生活の意味がないと思い、焦燥するのなら、メディアや大勢の人々に「カッコ良さ」や「素晴らしさ」という足下を支えてもらった場での刺激的な「非日常的」体験は、同時に私たちの「暮らしの不可視化」を助長するものだろう。
「暮らしの不可視化」とはすなわち「身体の弱さ」を意味する。恋人とただ笑い合う時間、友人の家で出された奇妙な形をしたコップに対する感動、予定のない日の午後二時に訪れる倦怠感、水田脇の用水路に見た小宇宙…これら生活の中の密かな発見や動揺を「不毛」と呼び、ダラダラと行く当てもなく街を徘徊することに何一つの魅力も見出せず、私たちは雑誌が取り上げる原色の情報「大文字の固有名詞」に狂乱する。皆で共に、誰かが用意した「一つのスケジュール」をこなすといった様相だ。
だが実際、生活空間に雑誌が付けてくれる赤丸印や鍵括弧、キャプションなどは存在しないのである。現実とはいかなる方向性も視点の強要も本来持たない、複雑なだけの表層であるからだ。
近年の「私たち世代」が起こした殺人事件などを見ていると、彼らの「殺す理由」は憎しみでも恨みでもなく、日々の「退屈」に対する言いようのない焦りや違和感であることが多いように感じる。
私たちにとって今最も切実に必要なのは、「退屈」な日々や暮らしの中にこそ自分を揺り動かす何かを見つけることのできる、目や耳、鼻や皮膚ではないだろうか。それらを私は「強き身体」と呼ぼう。あらかじめ用意された「現実」に服従するのをやめるのだ。
テラスハウス左側とはまさしくそのようなことを訪問者に気付かせる装置として機能すると、私は一方的にでもあるかもしれないが、思い、勝手に期待する。
代表者の一人、中田さんがある時このようなことを言った。「私たち世代の今を見せたい」。この「今」を、彼らが扱う「作家」や「作品」だけに求めようとするのは、テラスハウス左側へ向ける視線として(いや、もはや全ての空間において)、「大文字の固有名詞」に何もかもをを奪われた者の大きな間違いであると私ははっきり言える。彼らの日常が形成した「家」に訪れることそれ自体が、「作品」を見ることと等しく「今」を感じさせなければならないはずである。
もし例のような「非日常」空間における、刺激的な「作家」中心のパースペクティブを生み出したいのであれば、彼らは都内に数えきれないほど存在する「真っ白な空間」へと「作家」を導くべきであり、彼らにそのような能力がないかと言えば友人としてそのようなことはないと言い切れる。
彼らは「家」といった空間で「美」を再び見つけようとしているのだ。あるいは無闇に日常の外に追いやられた「作家」という「中心」を、再びこの複雑な表層の中に回帰させようとしているのかもしれない。窓外からは雑音と日光が漏れ入り、床の木目は剥がれ、トイレが間近にあり、普段着の彼らと用意されていない会話がある、私たちが「退屈」と言った、その場所で…。
そのような「強き身体」の回帰。
あらかじめ用意された点を辿るだけの「弱き身体」への決別。
これは現代において最も挑戦的な冒険の一つである。
もう一度問おう。「何もなかった一日」など、本当にあったのだろうか?
8月31日晩夏
自室にて